10. 常にゆれる

1)奇妙な症状

乗り物酔いは、車や船、飛行機などでゆらぎがくり返されると、吐き気や嘔吐など不快症状のおこる現象です。病気ではなく、前庭器のもともとの欠陥をカバーする、生理的な仕組みです。奇妙なことに、移動空間(船、車内、エレベータ、エスカレータ)にいるときは症状が出ず、静止した空間(大地や屋内)に戻ると揺らぎ、頭痛、吐き気のおこる病気があります。以前より、下船病(Mal de debarquement)と呼ばれてきました。健康な人々も、しばらく乗船したあとに下船すると、大地がゆれる感じを覚えます。これは生理的な現象で通常、数分から数時間、長くても数日で、この感覚は消失します。

下船病の典型例では、船や飛行機、電車、遊園地の乗り物など、乗り物体験がきっかけで常にゆれる感覚が生まれ、数週から数ヶ月、時に年余にわたってつづく難病です。感覚だけにとどまらず、しばしば肉眼的にも、上体を規則的に左右や前後にゆっくりと(約0.2Hz)ゆすります。読書やパソコンが苦痛、人混みでぶつかり、調理や作業も困難となります。眼を閉じると歩けなくなります。電車、エレベータやエスカレータから降りると、一時的に揺らぎが悪化し、乗車中や乗船中の方が楽に感じます。しばしば、頭痛、昼眠気があり、光をまぶしく感じ、温度や気圧の変化に過敏になります。意識的に揺らぎを抑えることは可能ですが、すぐに吐き気が誘発され、長く抑えることは不可能です。

これらの症状から、通学や通勤、パソコンや調理、作業が困難となり、QOLがいちじるしく低下し、しばしば休学や休職、退職を余儀なくされます。きわめて稀な病気ですが、原因は不明で、有効な治療法もありません。重症になると数ヶ月から数年、中には10年以上も訴えのつづくことがあります。検査で何よりも特徴的なことは、通常のめまいでは記録されないような、いちじるしく大きな重心動揺記録です。しばしば、前後や左右の規則的なゆっくりしたゆらぎが記録され、経過中に軽快、増悪を繰り返す例が多いようです。過去11年8ヶ月に受診した下船病、下船病疑い例45名を示します。

2)疑い例を含めた45名の内訳

発症 職業 発症契機 罹病 予後 その他
1 42 42 主婦 マンション揺れ 1年 軽快
2 57 57 清掃業務 高速エレベータ 6ヶ月 軽快
3 24 25 販売業 大震災 8ヶ月 軽快
4 30 30 事務職 電車利用増加 3ヶ月 軽快
5 48 50 主婦 不明 2年 観察中 20代で転倒、前歯折る
6 42 45 事務職 6時間ヨット 3年 不明 ボクシングで憎悪
7 14 29 金融業 不明 15年 軽快
8 47 48 電気工事 不明 1.5年 不明 小学時、鉄棒落下
9 31 31 案内係 高速エレベータ 3ヶ月 軽快
10 34 34 製造業 9時間乗船 10日 治癒
11 31 31 銀行員 5日間乗船 11日 軽快
12 20 20 学生 25時間船往復 1週 軽快
13 31 31 無職 30分乗船 20年 BP 11歳後頭部から落下
14 31 32 販売業 飛行機 1年 不明
15 11 39 清掃業 電車 2週 観察中 小6後頭部打撲
16 26 26 SE 25時間乗船 9日 不明
17 48 48 事務職 遊園地乗り物 5ヶ月 観察中 28歳階段落下強打
18 38 41 主婦 8時間乗船 2.5年 観察中 21年前車横転
19 26 26 大学助手 不明 1ヶ月 不明
20 23 23 水族館 シャチ水中演技 4ヶ月 治癒 中止で軽快・退職
21 45 45 事務職 不明 3ヶ月 観察中 18歳高所から落下
22 40 40 事務職 高速エレベータ 2ヶ月 観察中 過去に7回追突事故
23 41 41 事務・現場 新幹線通勤 10日 不明 休職
24 41 43 事務職 不明 2年 軽快 22歳自損事故
25 32 36 保育士 飛行機・出産 4年 軽快 陣痛48時間・退職
26 24 24 販売業 遊園地乗り物 1ヶ月 BP 学童時落下、最近転倒
27 13 28 歯科助手 小学生より 15年 観察中 小学時頸部打撲
28 58 70 無職 不明 12年 観察中 発症前対向車衝突
29 16 17 学生 不明 1年 精査中 小学時頸部打撲
30 33 34 事務職 大震災 11ヶ月 軽快 発症直前、顔面強打
31 56 62 主婦 電車 6年 観察中 悪性リンパ腫
32 61 63 無職 3ヶ月クルーズ 2年 観察中 アーノルドキアリ
33 32 34 現場作業 電車 2年 軽快 中学スキー転倒打撲
34 58 58 無職 飛行機 4ヶ月 不変 52歳交通事故頸部打撲
35 21 28 事務職 頻回搭乗 7年 軽快
36 31 33 保険営業 30分乗船 2年 軽快BP 30歳階段転落
37 24 24 無職 45日航海 7年 BP 複数の頸部打撲・転倒
38 33 53 無職 飛行機 20年 不明 6歳時落下
39 44 51 リハ助手 不明 7年 観察中 43歳転倒、高度不眠
40 43 43 事務職 大震災 3ヶ月 自殺
41 23 23 保険営業 遅い帰宅2ヶ月 1年
42 45 55 専業主婦 傾いた家に居住 10年
43 26 26 工場作業 回転性めまい 3ヶ月 軽快 学生時剣道部
44 23 23 保育士 めまいで転倒 45日 観察中 3歳時、2階から落下
45 50 51 専業主婦 ジェットコースター 9ヶ月 観察中 17年前硬膜外麻酔

3)症例

症例:23歳女性、水族館勤務

本例(上表、症例20)はシャチ水中ショー開始7ヶ月から常にゆらぐようになり、2008年に受診しました。休職し1ヶ月で軽快し、3ヶ月後のショー再開で再発します。ショー継続は困難と判断し、退職してからは再発していません。通常、下船病は、船や飛行機、電車、遊園地の乗り物で発症しますので、本例は珍しいケースです。誘発環境の忌避で改善し、再度この環境に曝されて再発したので、水中ショーが下船病の誘因であったことは明らかです。軽症例は、誘発環境をさけることで、症状の進行が予防されます。

症例:36歳女性(発症時24歳)、無職

本例(上表、症例37)は2006年2月から45日間の実習航悔中に発症し、仲間が船酔いで苦しむ中、酔いを経験していません。発症3ヶ月後に受診し、初め前後、左右のゆれは、次第に左右のゆれとなり、頑固につづきました。複数の頸部打撲、転倒歴があります。発症5年半後に、某脳外科で脳脊髄液減少症を疑われ、ブラッド・パッチ治療を受け、1ヶ月後に正常に改善しました。しかし、1年後に再発し、2013年再度、同治療を受けて改善せず、2017年12月3回目の治療を受けました。2018年4月時点で改善はありません。本例より、下船病の一部にきわめて難治な例のあること、下船病と脳脊髄減少症の境界が不明瞭なことがわかります。

症例:41歳男性、工場現場作業

本例(上表、症例33)は日頃、車通勤で電車を利用しませんが、2009年9月会社研修で3日間、片道1時間の電車通勤をしました。3日目にゆらぎが発現し、作業やパソコン不可となり、3ヶ月で改善します。しかし、不眠とうつを発症し、以来休職していました。2011年10月再発し、2011年12月豊橋から自家用車を運転し(運転は支障ない)、受診しました。下船病に特徴的な、酩酊歩行と規則的な大きなゆれが記録されました。電車利用を避けることで軽快し、4ヶ月後の受診で完治しました。2018年2月の電話連絡で再発していません。本例のように、きわめて大きなゆらぎでも、発症誘因の忌避で、改善する例も少なくありません。

症例:33歳女性、専業主婦、保険営業

本例(上表、症例36)は乗船がきっかけでゆれが発症し、経過中にいちじるしく大きなゆれが記録され、典型的な下船病症状をしめしています。既往歴で、3年前に階段から落下し、尻を強打しています。脳脊髄液減少症が強く疑われ、紹介先の脳外科でブラッド・パッチが施行されました。その後、症状は軽快し、最近の電話連絡でも再発していません。典型的な下船病でも、ゆらぎの程度は経過中に、体調で変動することがしばしばあります。

症例:26歳男性、工場現場作業

本例(上表、症例43)は2017年10月回転性めまいと耳症状を発症し、常にゆらいで欠勤を反復し、11月より休職、2017年12月に受診しました。両耳の低音障害をみとめ、裸眼でも酩酊歩行で、頭部をゆすり、下船病に特徴的な、重心動揺記録で前後の大きなゆれが記録されました。上図で青の記述は浮遊耳石症の症状、赤の記述は下船病に特徴的な症状です。3ヶ月後の2018年2月の電話連絡で、ゆらぎは軽快し、耳症状は残るものの、職場復帰していました。遠方のため、その後受診していません。本例は落下転倒歴のない若い男性で、乗り物体験で発症してもいません。特浮遊耳石由来の回転性めまいで発症し、その後、下船病に移行したような経過ですが、本当の病因は不明です。

症例:23歳女性、保育士

本例(上表、症例44)は2017年11月めまいで転倒後、起立や歩行が苦痛となり、保育士を休職。ドクター・ショッピング後、2017年12月に受診しました。開眼でも上体を前屈しやっと立つ状態で、閉眼は不可、上体をゆすり、重心動揺記録は増大し、下船病の多くの症状をしめしました。落下歴があるため脳脊髄液減少症を疑い、脳外科に紹介しましたが、可能性は低いとの返信でした。2018年4月現在ゆるやかに軽快しつつあります。

4)45名の集計結果

下船病・疑い例45名、性別・年齢

上図は一番最近の例を含めた45名の集計で、女性が全体の78%、発症年齢20~40歳代が78%をしめます。比較的若い世代の女性の病気といえます。下図は発症のきっかけの集計で、特別なきっかけなしが最多の11名(24%)、船9名(20%)、電車5名(11.1%)、飛行機4名(8.9%)、遊園地乗り物3名、高速エレベータ3名(各6.7%)、大震災2名(4.4%)とつづきます。45名中24名(53.3%)が乗り物がきっかけで発症していますが、不詳のものも少なくありません。

下船病・疑い例45名の発症きっかけ

下船病・疑い例45名のゆらぎ以外の症状

上図は45名のゆらぎ以外の症状の頻度で、多様な症状が見られています。下車、エスカレータ・エレベータ後にゆらぎ増大60%、新聞、読書、パソコンが苦痛や不可48.9%、昼眠気、昼寝習慣40%、人混みでぶつかる24.4%、羞明22.2%、頭痛22.2%、次いで酩酊歩行、車内着席困難、乗車中が楽、気温・気圧変化に過敏、脳疲労など。これら症状のうち、昼眠気、羞明、気温・気圧変化に過敏、脳疲労などの訴えは、下船病に限らず、長期間つづくめまい例(クプラ耳石症など)でも見られ、脳の過労状態の結果を思わせます。

5)下船病の病因、対策、症状の解釈

当施設の過去12年間の受診者10,670名中、下船病は疑い例を含め、わずかに45名、0.42%でした。症例や発症のきっかけ、症状の内容や程度、予後は多様で、一つの疾患というよりも、症候群の可能性を示唆しています。落下、転倒、打撲の既往が45名中20名、44.4%に見られますが、通常集団の調査結果がないため、因果関係は不明です。45名中24名、53.3%が乗り物体験で発症しており、移動空間に異常に適応し、静止空間に戻っても再適応しにくい状態、と理解できます。乗り物体験が重なると増悪しやすく、乗り物の忌避で改善する例が多いことからも、この可能性が支持されます。

今回の集計例の中に、脳脊髄減少症の治療(ブラッド・パッチ)で明らかに改善した例があり、髄液代謝が関わる可能性も小さくありません。頑固に持続する例は検査を受けることを勧めています。パソコン、読書、作業、調理、狭い着席が困難や不快は、体を静止させるのが困難なための症状です。静止位をつづけると、酔い症状が誘発されます。移動空間に適応しているため、多くの症例で、乗車中はむしろ楽なことが体験されています。昼眠気、頭痛、羞明、感覚過敏(視覚、嗅覚、聴覚、温度・気圧変化)は、他の頑固なめまい疾患でも訴えられるので、脳疲労の結果と考えられます。

下船病患者の重心動揺記録

上図の左は下船病患者(上から症例38、33、39)の重心動揺記録です。右はめまいが消失した受診者に、重心をゆっくりと左右(上)、前後(中)、円状(下)に移動してもらい、開眼と閉眼で60秒間記録したものです。両者は区別できないほど、互いにそっくりです。この試みから、重心動揺記録のいちじるしく大きなゆらぎは、通常のめまい患者のゆらぎと異なり、患者さま自身が意図的にゆらしているといえます。その証拠に、短時間であれば、ゆらぎを止めることができます。意図的にゆらすのは、脳内にゆらぎ感覚があり、これに合わせて体ゆらすと楽なためです。下船病でも、軽症であれば肉眼的なゆれは見られませんが、程度が重くなると、肉眼的に前後や左右にゆするのが観察されます。しかし、この現象も下船病にかぎったものではなく、長期につづくめまい例で時々観察されます。

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